ファラデーの伝- デ・ラ・リーブ・旅行のつづき -

十七、デ・ラ・リーブ

 そのうちに、ファラデーに同情する人も出来て来た。一八一四年七月から九月中旬までゼネバに滞在していたが、デ・ラ・リーブはデビーの名声に眩(くら)まさるることなく、ファラデーの真価を認め出した。その動機は、デビーが狩猟を好むので、リーブも一緒に行ったが、リーブは自分の銃は自分で装填し、デビーの鉄砲にはファラデーが装填する。こんな事で、リーブとファラデーとは談話する機会を得、リーブはファラデーが下僕ではなくて、実験の助手であることも知ったし、またこの助手が中々偉い人間であることも知った。それでほとんどデビーに次ぐの尊敬を払いはじめた。ある日、リーブの所で正餐をデビー夫妻に饗(もてな)したことがあった。その時ファラデーをも陪席させると言い出した。しかしデビーは下僕の仕事もしているのだからというて断った。しかしリーブは再三申し出して、とにかく別室でファラデーを饗応(きょうおう)することにした。

 ファラデーはリーブを徳としたのか、その交際はリーブの子の代までも続き、実に五十年の長きに亘(わた)った。

十八、旅行のつづき

 再び旅行の事に戻ろう。デビーはゼネバを立って、北方ローザン、ベルン、ツーリヒに出で、バーデンを過ぎてミュンヘンに行き、ドイツの都会を巡遊して、チロールを過ぎり、南下してピエトラ・マラの近くで、土地より騰(のぼ)る燃ゆるガスを集め、パヅアに一日、ヴェニスに三日を費し、ボログナを通ってフローレンスに行き、ここに止まって前に集めたガスを分析し、十一月の初めには再びローマに戻って来た。

 ファラデーは一・二度母親にも妹にも手紙を送り、また王立協会の前途を案じてはアボットに手紙を送り、「もし事変の起るようなことでもあったら、そこに置いてある自分の書籍を忘れずに取り出してくれ。これらの書籍は旧に倍しても珍重するから」と書いてやった。また自分の属する教会の長老には寺院のお祭りや謝肉祭の光景、コロシウムの廃跡等をくわしく書きおくり、若い友人にはフランス語の学び方を述べた手紙を送ったりした。

 この頃のファラデーの日記を見ると、謝肉祭の事がたくさんかいてある。その馬鹿騒ぎが非常に気に入ったらしく、昼はコルソにて競馬を見、夕には仮面舞踏会に四回までも出かけ、しかも最後の時には、女の寝巻に鳥打帽という扮装で押し出した。

 サー・デビーは、それからギリシャ、トルコの方面までも旅行したい希望であったが、見合わすこととなり、一八一五年二月末、ネープルに赴いてベスビアス山に登り、前年の時よりも噴火の一層活動せるを見て大いに喜んだ。

 このとき何故か、急に帰途に就くこととなり、三月二十一日ネープルを出立、二十四日ローマに着、チロールからドイツに入り、スツットガルト、ハイデルベルヒ、ケルンを経て、四月十六日にはベルギーのブラッセルにつき、オステンドから海を渡ってヂールに帰り、同じく二十三日には既にロンドンに到着した。

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入力:松本吉彦、松本庄八 校正:小林繁雄

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